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ご無沙汰しておりました。
市議会議員の佐藤みとです。
ブログをしばらくお休みしておりました。
実は、平成19年1月に主人を亡くし…どうしてもブログを書く気持ちになれずにおりました。
私は、4年前まで主人の議員活動のサポートをしておりました。
市民の皆さんのご意見を伺ったり、議会で質問することを一緒に調べたり、原稿のチェックをしたり、広報紙の作成のお手伝いをしたり、議会の傍聴に行ったり…本当にいつも主人と一緒にいて、色々な希望や夢を話し合い、同じ目標に一緒に取り組んでいました。
主人の2期目の選挙の準備も着々としておりました。
しかし、2期目の選挙の直前に、どうしても、体調の優れない主人が病院に行き、出た診断は「大腸末期ガン」で、余命3ヶ月ということでした。
手術をしてもそのまま閉じてしまうかもしれないし、どうなるか保障はできないと言われました。
「やっと自分のやりがいのある仕事が出来るようになったのに…」と私達、家族の前では、涙を見せたことのない主人が、初めて泣いていました。
「まだ、やり残している事もあり、やらなくてはならない事もたくさんあるのに…。」…と泣く主人の無念な気持ちをこのままにしておけない…と、私が主人の気持ちを引き継ぐ決心をしました。
それからの主人は、私のサポートをしてくれました。
街頭演説や駅頭立ちの慣れていない私の横に、辛い身体を我慢して、一緒に立って話しをしてくれた事もありました。
そんな主人の支えもあり、そしてまた皆さんのお陰で、私は議員にならせて頂きました。
忙しくて子ども達と一緒にいれない私に代わり、むくむ足を引きずりながら、あちこちに子ども達を連れて行ってくれたり、買い物をしてくれていました。
夜、家に帰るとむくんだ主人の足を、泣きながらマッサージして、今日あったことや相談や色々な話しをしました。
主人は、病院ではなく家にできる限りいたい、家族と過ごす時間を大切にしたいと言いました。
私達、家族は、主人のやりたい事をやりたい様にさせてあげたいと思いました。
余命を宣告された病人を抱えている家族の方にはわかると思いますが…ドラマのような奇麗事では済まされない、ここでは書き切れない事が、たくさんありました。
しかし、とうとう、主人の最期の時がきました。
主人の最期は、とても穏やかでした。
主人は、最期に私にそばにいて欲しいと言いました。
私は主人の背中をさすり、手を握り、主人の静かな、穏やかな旅立ちを見送ることが出来ました。
主人はとてもいい最期を迎えられました。
私は「これが主人の運命だったのだ」と…この時、初めてそう思うことが出来ました。
それから毎日、主人を思い、泣かない日はありませんでした。
ブログを書くと、日頃、抑えていなくては生きていけない、そんな想いがあふれてきそうで…どうしても、書く気持ちになれませんでした。
私は、主人が遺してくれた宝物…子ども達のためにも、生きていかなくてはならないのです。
主人の遺志である「皆さんの声を市に届ける活動」をなんとしても、守り続けたい。主人と私の夢を実現させたい。
その一心で、主人が亡くなってからも、歯を食い縛って議員活動を続けてきました。
それが、亡き主人との協働作業のような感覚があるのです。
ある瞬間、主人が私のそばにいてくれているのを、感じる事がよくあります。
佐藤みとは、泣きながらも、必死に 主人 浩章と私 の夢である「市民の皆さんの声を市に届け、皆さんの意見が反映される事で、政治に関心を持っていただける。座間市を創っているのは、住んでいる私達なんだと実感できる。そして、さらに市民の皆さんが生き生きとできるまちづくり。」に向かって、しっかりと歩んでいます。今は亡き主人 浩章 と共に…。
市議会議員の佐藤みとです。
ブログをしばらくお休みしておりました。
実は、平成19年1月に主人を亡くし…どうしてもブログを書く気持ちになれずにおりました。
私は、4年前まで主人の議員活動のサポートをしておりました。
市民の皆さんのご意見を伺ったり、議会で質問することを一緒に調べたり、原稿のチェックをしたり、広報紙の作成のお手伝いをしたり、議会の傍聴に行ったり…本当にいつも主人と一緒にいて、色々な希望や夢を話し合い、同じ目標に一緒に取り組んでいました。
主人の2期目の選挙の準備も着々としておりました。
しかし、2期目の選挙の直前に、どうしても、体調の優れない主人が病院に行き、出た診断は「大腸末期ガン」で、余命3ヶ月ということでした。
手術をしてもそのまま閉じてしまうかもしれないし、どうなるか保障はできないと言われました。
「やっと自分のやりがいのある仕事が出来るようになったのに…」と私達、家族の前では、涙を見せたことのない主人が、初めて泣いていました。
「まだ、やり残している事もあり、やらなくてはならない事もたくさんあるのに…。」…と泣く主人の無念な気持ちをこのままにしておけない…と、私が主人の気持ちを引き継ぐ決心をしました。
それからの主人は、私のサポートをしてくれました。
街頭演説や駅頭立ちの慣れていない私の横に、辛い身体を我慢して、一緒に立って話しをしてくれた事もありました。
そんな主人の支えもあり、そしてまた皆さんのお陰で、私は議員にならせて頂きました。
忙しくて子ども達と一緒にいれない私に代わり、むくむ足を引きずりながら、あちこちに子ども達を連れて行ってくれたり、買い物をしてくれていました。
夜、家に帰るとむくんだ主人の足を、泣きながらマッサージして、今日あったことや相談や色々な話しをしました。
主人は、病院ではなく家にできる限りいたい、家族と過ごす時間を大切にしたいと言いました。
私達、家族は、主人のやりたい事をやりたい様にさせてあげたいと思いました。
余命を宣告された病人を抱えている家族の方にはわかると思いますが…ドラマのような奇麗事では済まされない、ここでは書き切れない事が、たくさんありました。
しかし、とうとう、主人の最期の時がきました。
主人の最期は、とても穏やかでした。
主人は、最期に私にそばにいて欲しいと言いました。
私は主人の背中をさすり、手を握り、主人の静かな、穏やかな旅立ちを見送ることが出来ました。
主人はとてもいい最期を迎えられました。
私は「これが主人の運命だったのだ」と…この時、初めてそう思うことが出来ました。
それから毎日、主人を思い、泣かない日はありませんでした。
ブログを書くと、日頃、抑えていなくては生きていけない、そんな想いがあふれてきそうで…どうしても、書く気持ちになれませんでした。
私は、主人が遺してくれた宝物…子ども達のためにも、生きていかなくてはならないのです。
主人の遺志である「皆さんの声を市に届ける活動」をなんとしても、守り続けたい。主人と私の夢を実現させたい。
その一心で、主人が亡くなってからも、歯を食い縛って議員活動を続けてきました。
それが、亡き主人との協働作業のような感覚があるのです。
ある瞬間、主人が私のそばにいてくれているのを、感じる事がよくあります。
佐藤みとは、泣きながらも、必死に 主人 浩章と私 の夢である「市民の皆さんの声を市に届け、皆さんの意見が反映される事で、政治に関心を持っていただける。座間市を創っているのは、住んでいる私達なんだと実感できる。そして、さらに市民の皆さんが生き生きとできるまちづくり。」に向かって、しっかりと歩んでいます。今は亡き主人 浩章 と共に…。
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